ド素人からの出発 〜ド素人だからできた〜

私と新生屋との始まり
新生屋食品店の代表取締役社長兼店長の萩島由太です。
子供の頃の夢はとくに無し。
「その日その日を楽しく過ごせたらいいや!」
そう思って生きていました。
元々は配管工をやっていました(なので配管には結構詳しいですよ笑)が、才能が無くて辞め、フラフラとプータローのような生活を過ごしていました。
そんな折、当時、母方の祖父が経営していたこの店の職人さんが入院することになり、「暇しているなら手伝え」と“2週間だけ”という話で働き始めたのがそもそもの私とこの仕事の始まりです。
平成22年(2010年)7月のことでした。
そして2011年3月、ど素人社長の誕生
2週間という約束でしたが結局、人手が足りず、そのまま勤めはじめることになりました。
その頃、気づいたのは、当時の代表取締役社長である祖父の様子。
どうも、おぼつかない。計算もうまくできていない。。。
これはやばい!
私は慌てて母に連絡。祖父の様子がおかしい!
祖父は体調が悪いわけではなかったのですが、老いによって社長を務め続けるには限界があるようでした。
そして翌年(平成23年、2011年)、家族で話し合った結果、このまま祖父が社長を続けることはできないとなり、私が「勢いで」社長を継ぎました。3月22日のこと。当時24歳でした。
当時は東日本大震災が起こって間がない頃だったので、とてもよく覚えています。
祖父は引退し、そしてそのまま職人さんも引退してしまったので、私の母が店に入って手伝うことに。また、私が入店する少し前から、弟が先に手伝いに入っていたので、弟は私の先輩です^^;
こうして、ど素人の私、母、弟の3人が主となって店を切り盛りすることとなりました。
「ど素人がやっている“老舗”のお肉屋さん」という謎の店となったわけです。
ちなみに、店の看板を背負う社長となった私はまだそのころ、肉を切ることさえできませんでした。
祖父が遺してくれた家族の絆、新生屋食品店
さて、経営のふたを開けてみると、なんと赤字経営。
手伝っている頃は分かっていませんでしたが、借金もいっぱい。。
赤字経営にもかかわらず利益もないような仕事をいろいろやっている!
と、ドン引くような経営内容で「おじいちゃん、何してくれてるねん! 継ぐんじゃなかった。。」と何度も思いました。
新生屋食品店もかつては多店舗展開する名の知れた店だったそうですが、時代が市場や専門店からスーパーへと変わっていく中で、職人気質の祖父の世代では対応することができなくなっていたのでしょう。
無理のないことだと思います。
しかし、祖父は、1店舗になってしまったとはいえ、新生屋食品店を残してくれましたし、希少な国産牛のホルモンの直取引ルートも残してくれました。
また、数多くの素晴らしいお取引先様、そして何より多くの一般のお客様とのつながりを残してくれました。
これらは現在も新生屋の生命線となっており、店を続けていくための大きな支えです。
祖父はその後、亡くなりましたが、母と弟という家族で経営している今、家族のために祖父が遺してくれたこの店に、今でもその魂が残っているように思います。
暇だった店
こうして店を継いだものの、赤字経営ですし、何しろ店が暇でした。
今のような牛肉の販売はほとんど行なっておらず、主に牛ホルモンの販売のみ。
しかもそのホルモンも全く売れず毎日、廃棄の山を築きました。
しかし、私も呑気なもので。
経営のイロハも知らない素人ですから、そのことに危機感を持つことすらもできなかったのです。
今もそうですが、当時も母と2人で店頭に立っていました。何しろすることがないので、母親と仲良くおしゃべり。このころが母と一番、会話をしていたのではないでしょうか。
今はありがたいことに店が非常に忙しくなったので、商売のことで母とシビアな会話をすることも増えました。
母と息子、という関係が少し変わってしまいましたが、店をもっと軌道に乗せ、母を安心させることが最大の親孝行になると思っているので、いまは頑張っていくしかありません。
まさかまさか? 店を助けてくれたのは意外な人
さて、そんな暇だった店を変えたのは、意外な人でした。
当店の斜め前。
実に徒歩1分のところに、超人気のお肉屋さん「肉のデパートマルヨネ」さんがあります。
マルヨネさんからさらに50メートルほど歩けば、これまた人気のお肉屋さんである「庄田軒精肉店」さんがあります。
なんと、私の店から徒歩1分ほどの圏内に、競合のお肉屋さんが2店舗もあるのです。
はっきり言って、赤字経営の当店など、代替わりをきっかけに、このまま速攻で潰されて終わりとも言えるでしょう。
ところが、私の店の売れないホルモンを買ってくれていたのが、徒歩1分にあるマルヨネの店長の米政範(ヨネ・マサノリ)さんなんです!
「お兄ちゃん(私のこと)、売れ残ったもんあったら、何でも持っておいで! 全部買うたるから!」
そう言ってくださって、本当に何でもかんでも買ってくれるわけです(笑)
ですから私も、とりあえず店頭に並べて、売れ残ったら「米さ〜ん! お願いします(^^)」とニコニコ顔で持っていくわけです。
そうしたら「よっしゃ!」と米さんは快く何でも買ってくれました。
ありがたいことです。
私なんかは、社長になった当初、やる気が全然ありませんでしたから「あ〜今日は気分が乗らんな。早く店を閉めて、飲みに行きたいな」と思ったら、早々に店じまいをして、さっさと米さんのところに、まだ自分の店で売れるかもしれないホルモンを持って行っていました(^^;)
どうしようもないですね。
私を変えてくれたのも米さん!
しかも米さんはホルモンを買ってくれるだけじゃなく、色々な商売の技術を教えてくれました。
「お兄ちゃん! 仕入れ先には、自分から欲しいって言ったらあかんで! 高い値段付けられるだけやから。『余ってるもんあったら、買ったるで!』と言わないと」
そう言って、ニヤッと笑います。
「なるほど!」
私は米さんに習って、次第に仕入れ方、売り方がわかってくるようになりました。
次第に、ホルモンも色々な卸先に買ってもらえるようになり、商売の面白さが少しずつわかってきました。
そしてある日、いつものように残り物を米さんのところに持っていきました。
残り物とはいえ、まだまだ超新鮮な、国産の超貴重なホルモンです。トンデモナイ価値があります。
当時の私は、そういったことに全く気づいていませんでした。売り先がなくて余ってしまって、どうしようもないから、米さんに売る。ただそれだけでした。
しかし、ふと、米さんのあの言葉が思い当たりました。
「お兄ちゃん! 仕入れ先には、自分から欲しいって言ったらあかんで! 高い値段付けられるだけやから。『余ってるもんあったら、買ったるで!』と言わないと」
アッ! そういうことか!
そうなのです。
この米さんの言う「余っているものを買ってもらっている」のは、実は私だったわけです。
商品を余らせて、しょうがなく米さんに売っているようではダメなのです。
「この商品を求めているお客さんを探して、売りに行かないといけないんだ!」
この米さんのエピソードは、商売のコツであるとともに、私への戒めも込めてくれていたことに、ようやく気づいたわけです。
こうして私は、売り先の開拓にさらに力を入れるようになりました。
そしてある時、米さんは私に言いました。
「お兄ちゃん! ウチに持ってくるホルモンの数、だんだん減ってるな! 自分で売れるようになってきたんやな。嬉しいわ」
そう言って笑ってくれる米さんはめちゃくちゃカッコよかったです。
店の斜め前にある、敵の店(まあ敵といえるほどのものでもないのでしょうけど)に、アドバイスをして、ちょっとずつ強敵になっているのに喜んでくれる。
逆に、米さんには頭が上がらなくなりました。
あの人にもお世話になりました
そのマルヨネさんから徒歩50メートル先にあるのが庄田軒精肉店さんです。
庄田軒さんにはなんと、肉の切り方を教えてもらっていました^^;
なにせ私は、代表取締役社長兼店長のくせに、肉もろくに切れませんでしたからね^^;
肉が切れない肉屋の店長って、ひょっとしたら世界中でも私だけだったかもしれません。
肉の切り方の基本が分かると、あとは何と「Youtube」を観て学びました。
Youtubeが師匠って、それこそ私だけじゃないでしょうか。。。
ホルモン屋だけでなく、牛肉販売にも参入
商売のイロハが分かってきてしばらく経った頃、ホルモンだけじゃなく、牛肉も扱いたいと思うようになりました。
全国的にも生産者が減っており、牛のホルモンも少なくなってきています。
ホルモン以外の商売もやらないと、将来的に不安だと感じました。
もちろん、新たに牛肉を扱っていくことは、リスクではあります。
ですが、ここで牛肉に参入せず、守りに入ることもリスクだと考えました。
そこで現在も仲良くしている(株)ビージョイさんとタイアップした牛肉の仕入れをスタートしたほか、牛1頭を買うことにはまだ抵抗があったので、神戸市場でロースとかバラなどの小割りした部位を買うことからスタートしました。
そして平成26年(2014年)末にはついに、枝肉せりに参加しました。年末用に、安めの牛を初めて買ってみました。超緊張しました(笑)
さらに27年(2015年)に入って2頭目を書いました。
7月に神戸市場で佐賀牛共励会が開催されたのですが当時、神戸市場のせり販売会社の社長をされていた平井力氏(故人)の提言で、前日に生産者と購買者の交流会(意見交換会)が開かれました。
そこで親しくなった前田博文さんが出品され「金賞2席」に入賞した牛を買ったのが記念すべき2頭目です。
平井さんは業界のドンと言われて、産地や我々購買者のために色々と尽くして下さいましたが、私が競りで牛を買うきっかけを作ってくださったのも、交流会があったからこそです。
これはやはり平井さんのおかげかと思います。
いきなり金賞2席を買うというのも勇気がいることです。競りボタンを押す手はずっと震えていました(笑)
しかし、私には心強い味方がいました。
それが庄田軒精肉店の水原導久社長です。
水原さんが「欲しい牛があるなら、好きなもの買ってごらん。売り切れない部位は買ってあげるから」と言ってくださったのです。
こうして、もし売れなくても、水原さんが買ってくれる! と考えることができたので、勇気を出して買うことができました。
先ほども書きましたが、庄田軒精肉店は私の店から徒歩1分です。
そんな近くにある敵の店のために、なぜそのような優しいことをしてくれるのか。。
マルヨネの米さん、庄田軒の水原さんには本当に感謝しかありません。
大浦ミートの大浦達也社長
そして知り合いのつてで、兵庫県加古川市の人気のお肉屋さんである(株)大浦ミートの大浦達也社長と仲良くさせていただくようになり、その年の9月、大浦さんがされている販売会に参加しました。
大浦ミートさんは私と同じで、もともとはホルモン屋さんで、そこから牛肉の販売も始められて、いまでは年間に牛1200頭以上扱っているそうです。
まさに私の未来がそうなったらな〜と思っているあこがれの社長です。
販売会ではたくさんの牛を販売するわけですが、大浦の社長は「買わなくていいから、美味しいもん食べに、遊びにおいで」と言われていました。
ところが販売会当日、大浦さんの牛を買い受ける業者さんの一部が交通の問題で来れなくなってしまい、1頭、売れ残った牛の枝肉がありました。
大浦社長も「残ったこの1頭、どうしようかな〜」と言っておられたので、私は「エイッ!」という感じでその牛を買っちゃいました(笑)
大浦社長もびっくりして「ほんまに大丈夫?」と心配して下さいました。
その牛は、非常に良い牛だけれども、とっても高価だったのです!
牛1頭を買う経験もほとんど無かったですし、しかもこんな高価な牛は買ったことがなかったので、ちょっとドキドキしていましたが「大丈夫です」と言い切りました(^^)
その高価な牛ですが、その後、無事に売ることができました。
この出来事をきっかけ私は、高価な牛も思い切って買う度胸と、そしてこうすれば売れるのだという勉強にも自信にもすることができたように思います。
この経験は大きかったです。
この経験を糧に、その後、色々な品評会で入賞するような高価な牛をどんどん買うようになり、私の牛肉販売としての人生がスタートしたように思います。
生産者の皆さんにも顔を覚えてもらえるようになりました。
牛の購買の歴史は、詳しくはブログを参照して下さい。
このように、多くの皆さんの助けを得て、新生屋食品店はここまで来ることができました。
今後とも皆さまのご愛顧をよろしくお願いしたいと思います。
新生屋の歴史は全くの謎
よく聞かれることが多いので、こちらにこそっと新生屋の歴史について書いておきたいと思います。
私は子供のころからボンヤリした性格だったので、祖父が店をやっていることは知っていましたが、何の店なのかは知りませんでした。
手伝いに行って初めてお肉屋さんで、それもホルモン屋さんだと知った感じです。
なんていいかげんなんでしょう。
そもそも私はホルモンが嫌いで(笑)、それでよくホルモン屋をやっているなという感じですが、今でこそ克服して好きな部位も増えましたが、最初は全然食べられませんでした。
家は一般家庭ですが、そこそこ裕福な暮らしをさせてもらっていたので、羽振りの良い商売なのかな、ぐらいに思っていました(そう思って継いだ時は赤字経営でしたが^^;)
私が店で手伝うようになったときは祖父も高齢でしたし、店の歴史について話すこともなかったので、実は本当に分かりません。。。
ちなみに、先々代は韓国人だったそうです。ところが祖父(先代)は養子なので、私も普通の日本人です。歴史的には韓国なのかもしれませんが、祖父の代で日本人となり、ルーツが途絶えてしまったのかもしれません。もう今となっては分かりません^^;
新しい歴史を作っていくしかないですね(^^)